
北陸のとある地方都市、夜の居酒屋
夜九時を過ぎた地方都市の駅裏。
煤けた暖簾をくぐると、カウンターの隅で、四十代半ばの男が二人、ぐい呑みを傾けていた。
高校の同級生。今は隣り合う自治体の、産業振興課の係長同士だ。
片方の男、仮にA係長としようの顔色は、明らかに悪い。
向かいに座るB係長は、それを察して、何も言わずに焼き鳥の串を一本、Aの皿に移した。
Aは焼き鳥には手を伸ばさず、ぽつりと言った。
「……お前、なんで、あの先生に頼んだんだ?」
Bは黙って、Aのぐい呑みに酒を注ぎ足す。
この二人、実は同じ時期に「生成AI活用セミナー」を主催した。
管轄する自治体は違うが、対象も予算規模も、ほぼ同じ。
ただ一つ、講師選定だけが、決定的に違った。
Contents
第一章:A係長の「安全な選択」
A係長は、講師選定にあたって、まず上司に相談した。
返ってきた答えは、想像通りのものだった。
「いつもの学術機関の先生でいいだろう。実績もあるし、説明もしやすい」
A係長は、特に異論はなかった。
というより、異論を出すリスクを取る理由が、見当たらなかった。
依頼したのは、首都圏の有名大学に籍を置く、生成AI研究の権威。
肩書は申し分ない。資料もきれいだ。
登壇料は、地元講師の三倍以上したが、「この肩書なら稟議も通りやすい」と、上司も満足げだった。
セミナー当日。
会場には、地元の中小企業の経営者や、商工会の会員が四十名ほど集まった。
講師は、開口一番、こう切り出した。
本日はLLMのアーキテクチャから、トランスフォーマーの自己注意機構について、簡単にお話しします
会場の空気が、一瞬で凍ったのを、A係長は今でも覚えている。
スライドは美しかった。横文字も多かった。
質疑応答では、誰も手を挙げなかった。
最後列の経営者は、明らかに寝ていた。
セミナー終了後、A係長は参加者にアンケート用紙を配った。
回収しながら、ちらりと自由記述欄に目をやって、息が止まった。
「結局、明日から何をすればいいのか分からない」
「うちみたいな従業員五人の会社には、関係ない話だった」
「予算をもっと、現場で使える内容に使ってほしい」
「こういうセミナーを誰が決めたのか、責任者を出してほしい」
この最後の一行を読んだとき、A係長の背中に、冷たい汗が流れた。
第二章:B係長の「勇気のいる選択」
一方、B係長の選択は、違っていた。
B係長は、半年前から、地元で小規模なワークショップを地道にこなしている、ある講師の存在を知っていた。
肩書は派手ではない。
首都圏の有名大学とも縁がない。
ただ、「対面ワークショップ75回超」という、地味な実績だけがあった。
B係長は、その講師が登壇した別のセミナーに、こっそり潜り込んで聴いた。
横文字はほとんど使わない。
代わりに、目の前の経営者の悩みを、一つずつ、生々しく解いていく。
受講者は、その場でPCを開いて、自社の業務を実際に動かしていた。
B係長は、上司にこう提案した。
「肩書は弱いです。でも、参加者が手を動かして帰るセミナーになります」
上司は渋った。
「もし失敗したら、お前が責任取れるのか?」
B係長は、震える声で答えた。
「取ります」
——稟議を通すのに、二週間かかった。
セミナー当日。
講師は、登壇するなり、こう言った。
今日、皆さんは手ぶらで帰しません。
一つだけでいいので、明日から会社で使える仕組みを、ここで作って帰ってください
会場の空気が、ふっと、ほどけた。
PCを開かない参加者には、講師が席まで歩いていって、隣に座った。
質疑応答では、手が止まらなかった。
セミナー後のアンケートには、こう書かれていた。
「明日から使える」
「うちみたいな小さな会社でも、できることがあると分かった」
「もう一度、社内研修として呼んでほしい」
「次回は、うちの専務も連れてくる」
そして、その日のうちに、個別相談の依頼が三件、B係長のもとに届いた。
第三章:居酒屋の、あの一言
話は、冒頭の居酒屋に戻る。
A係長は、ぐい呑みを置いて、ぼそりと言った。
「議会で、追及されたんだ」
Bは、無言で続きを待った。
「『四十名のセミナーに、登壇料八十万円。費用対効果はどうだった?』って。
アンケートを見せろと言われて……出したよ。出すしかなかった。
そしたら、議員の一人が、こう言ったんだ。
『これは、講師選定の問題だ。任命責任を問わせていただきたい』」
Bは、ゆっくりと酒を呑み込んだ。
「課長は、『私の責任です』と頭を下げてくれた。でも、上司が頭を下げる姿を見たのは、入庁して初めてだった。来年度の研修予算は、半分に削られる。多分、もっとかもしれない」
しばらく、沈黙が続いた。
Bが、ぽつりと言った。
「俺だって、安全パイで行きたかったよ。でも、お前と俺の管轄の経営者は、同じ顔をしてるんだ。人手不足で、採用もできなくて、エースは辞めて、それでも明日は来る。そういう人たちに、トランスフォーマーの話をしても、届かないだろ」
Aは、深くうなずいた。
「……お前の言う通りだよ。俺は、自分が責任を取りたくないから、安全パイを選んだ。でも、その『安全パイ』こそが、結局、一番デカい責任を背負わせる選択だった」
第四章:「任命責任」という言葉の、本当の意味
総理大臣が指名した大臣が不祥事を起こしたとき、しばしば「任命責任は私にある」と語られる。
これは、憲法六十八条に基づく総理の任命権に由来する、道義的・政治的責任だ。
法的拘束力はない。だが、信用は、確実に削られる。
これは、永田町だけの話ではない。
地方自治体の研修担当者も、商工会の事務局も、企業の人事担当者も、
講師を「指名」した瞬間に、任命責任を背負うのだ。
そして、その責任は——
研修が「明日から現場で使えるもの」になったか、否か、
それだけで、問われる。
横文字の数でもなく、講師の肩書でもなく、登壇料でもなく。
参加者が、手を動かして、帰ったかどうか。
たった、それだけだ。
エピローグ:北陸の産業振興担当者の方へ
このストーリーは、架空のものだ。
だが、北陸のどこかの居酒屋で、似たような会話が交わされていても、不思議ではない。
地方の中小企業は、今、本当に切羽詰まっている。
人手不足。採用難。エースの離職。
そんな経営者たちに、「LLMのアーキテクチャ」を聴かせても、何も変わらない。
必要なのは、現場で動くDXだ。
そのためには、講師選定の段階で、こう問わなければならない。
「この講師は、参加者を手ぶらで帰さない人か?」
「肩書ではなく、ワークショップの場数を踏んでいる人か?」
「横文字でマウントを取らず、地元のリアルを理解している人か?」
それを問えるかどうかが、担当者の——
そして、その自治体の——任命責任の重さを、決める。

